昭和54年07月18日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いを上げても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせぬでも、人にものを言うどおりに拝め。」
これは皆さんも体験のある事でしょうけども、雨が降るから風が吹くから、えらいとか、大儀と思うてはならんと。たしかに雨風、いうならばお参りのしにくい時にお参りをすると、たしかに一段と有難い事だけは間違いないですね。これは風雨だけの事ではありません。もう本当に、普通からいうとたらお参りがでけんのだけれども、お参りさせて頂くと一段と有難いです。
本当にそれこそ神様の何というかそれこそ、詩の文句じゃないですけれども、「雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃればなお可愛い」と言った様な、この働きが感じられますですね。だから皆さんがここのところを辛抱せんと、一番大事なところにだから触れられない事になるのです。もう今日は風が吹きよるけん、雨が今日はこんな事情でお参りでけん、神様も御承知だから、こんな所ではねおかげを受けるだけなら、いっちょんそげなこつはいらんです。又そんに有難いと思わないでもいいです。
けれども本当に有難いというのの積み重ねが御徳になる。その辛抱こそ身に徳を受ける辛抱じゃとここでも仰っておられるでしょうが。だから私は合楽の方達の皆に頂いて貰いたいのはだす、又神様の願いもです、氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、信心辛抱の徳を受けて、徳を受けてそれこそ昨日の御理解じゃないけれども、必要なものが必要に応じて、もう本当に頂ける程のおかげ、そういうおかげの世界がある。
そういうおかげの世界に住んでこそ、そのお徳はあの世にも持っていかれれば、この世にも残しておけると。いくら信心しとっても、ただ神様に御無理を言うて、神様から借金したような信心では、それこそ向こうにいってからでも神様が借金取りに来なさるようなことであってね もう折角信心さして貰うならば真の信心といわれるが、真の信心を目指さなきゃいけない。真の信心にはいわゆる真のおかげ、いわゆる御徳を受け、そしてそのお徳に伴うてくるおかげが必ず約束される、それにはねいわゆる信心辛抱。
三代金光様が、信心に一番大切な事は辛抱する事でありますと仰っておられるもんね。御自身もそれこそまだ、御年十四才と言った様な若いお年で、しかもそれこそ人の世に又とあろうと思われぬ程しの信心辛抱なさった。七十年間。お座りしぬかれた。もうこれが、一番のいうならば、私共の手本ですから、私共もそれを一生懸命、まあ真似方だけではあるけれども、真似の稽古をさせてもらう。
昨日は合楽会でございましたから、まぁいろいろまあ、いつも十二時になるのですけれども、昨日は久しぶりにここの西郷の、千代田さんの娘さんでここの合楽に嫁って来ております。私も娘の時分から、よくお父さんと私が懇意にしておりましたから、よく知っておりますんです。それが昨日は久しぶりで合楽会に参加して、まあいろいろ昔話をしておりました もう、父が言いよりましたち、もう大坪さんばっかりは違うっち、その時分の話を、まぁいろいろししておりました。
それがそういう昔話の中に、私が北京から引き上げて帰って、取り入れの加勢に行った時の話を昨日思い出した事でしたけれども、もう百姓という事は全然知らないし、した事もないけれども、まぁ手伝いに参りました。すぐそこの西郷の裏辺りにたんぼがありました、広いたんぼが。そこでやった事を記憶しておりますが、もうとにかくその日は遅うまで、夕方じゃなくてもうたいがい人の面が見えん位まで辛抱しとった。
最後にいっぱい打ち落とした藁を、藁こづみを作らんならんから、何ですかね、結す手でこうやって、あのう一応作っていかんならん。まぁそれを習うてから、ところがその慣れない事ですから、もうへとへとに疲れてる。だから少し傾斜のところで結びよったじゃないかと、その結ぶ為にこう力を入れた途端にね、体が向こうの方にくるっとひっくり返ってしまった。ひっくり返ったけれども、ちょっと慌てて起きる元気もない位に疲れておった。けれどもこうおうなかしになって、もう涙が流れる程有難かった。
もう本当に辛抱すればする程、頑張れば頑張る程、もうそれこそ体はそれこそ綿のように疲れておるのでしょう、慣れない仕事をしておりますから、そしてまぁあちらに泊まらせて頂くまだ昔の家でしたから。ここにかまどがあって、かまどのすぐ外に井戸がございましたが、今の千代田さんは早く起きて朝のご飯を炊かれる。私は早く起きてお水を頂いて、それからまた善導寺の朝の御祈念にお参りをする。いわゆる椛目の私の家は通り抜けて参るわけですね。
もう今日は取り上げで、夕べは千代田さんのところに泊まって、もう体もくたくたに疲れておるのだから、今日は御無礼しょうと言った様な事がなかったという話を致しました。しかも自分の家の前は通り抜けてから、椛目ですから、そして善導寺にお参りさせて頂いて、又帰って、又取り入れの手伝いをさせて頂いた事があったね、というて話した事ですけれどもね。もう私の場合はいつもそうでした。
神様には、実を言うたらいいわけはでけんのです。夕べはこうでしたから、夕べは遅うございましたから、こんな事情と、だから本当にやはり貫くという事になって、やはり貫かなければ頂けないものを、であるならば私は、そういうひとつの信心には根性が要る。信心辛抱という事と同時に内容が根性でなかにゃいけん。それ皆、そこのところの貫くというところがなかなかでけませんですね。
そしてそういう貫いた時に、いうならば雨の降る日におじゃるなというに、と言う様にです、濡れておじゃればなお可愛い。昨日はあげん疲れてとって、又今朝も早うからそのお水をかぶってお参りをする。そげんまでせんでんと、けれども神様は喜んで下さる証拠にもうそれこそ何処から湧いてくるか分からん感動を覚えておった。その感動がいうならば、喜びの徳と言う事になったのじゃなかろうかと思わしてもらいます。
昨日、一昨日朝ここで奉仕させて頂いて、ちょっと切りがついたら、急にここで眠気がきた。それはそうでしょう。前二日間というのは全然一睡もしてませんし、足をもんでもらうというても、時間が時間から時間ですから壮年会でございますから、それでやっぱり疲れとったのでしょう。それでこげな時が普通辛抱がなかもんは、すぐ立ってからちょっと横に寝るとじゃろうと、私は思わせて頂きましたが、神様へお願いさせてもらいましたら、「柴」という字を頂いた。
此のという字の下に木きへんの木が、柴田さんの柴です。だから木は心ですから「此の心」。今お前がきついなぁとか、眠たいなぁと思うておるその心を育てる事が信心じゃと神様から頂いた。もう頂いた途端にしゃんとしてから、眠かとがどこさいか行ってしもうたと言う様な感じでしたけれどもね。そういう時になら徳を受ける人。徳を受けきらない人、おかげだけで終わっていく人という私は社会があるように思うですね。
昨日、西岡先生のところに、ある御信者から電話がかかってきた。最近会社に勤めておるけれども、人間関係のことでどうにも辛抱でけん。親先生にお伺いして止めちよいち言うなら、どこか変わりたい。どんなもんでしょうかというお伺いがあったという事でした。それでその事を御願いさせて頂いておりましたら、今、今日の事ですね、今という字と、男という字を頂いた。その方は女性の方ですけれどもね、今の男と頂いた。だからどういう事だろうかと。
これは皆さんでもすぐ分かんなさるだろうと思うですね。合楽で御理解頂きつけておる人達は。今というのは、今の事でしょうけれども、男という字は、田を書いて力と書いてあるでしょう。田というのはおかげの受け物、一反の受け物をつくれば十俵がとれる。一丁の受け物をつくれば百俵とれる。だから信心の受け物が、大きければおかげまた大きい事は絶対のものなのです。これは一反に十俵と仮定してですよね。ですからその受け物が出来る、今こそ力が受けられる。
もう信心させて頂いたらもうこげな会社にゃ勤めごっない。特に人間関係、上役から、がみがみ言われるというような時程です、素晴らしい時なんです。おかげの受け物が出来る時です。力が得られる時です。それを例えば、もう辛抱しきらんで、もうあげな奴が顔は見うごつでんなかけんで、あの会社にぁ勤めん。そげな人はどこへ行ったちゃ同じこつです。だからここは、辛抱するが本当じゃろうね、というてお取次をさせて頂いたんですけれども。いよいよお徳を受ける。
いよいよ力を受ける時に投げ出してしまうもんですから、力も徳も受けられん事になるでしょう。成程お願いするからいうなら思うごたるおかげは頂いても徳にはならんて。おかげというのはね、本当のおかげというのは、思い以上、夢にも思わなかったようなおかげが本当の金光教でいうおかげなんです。だから、雨が降るから風が吹くからじゃいかんでしょうが。
もうそん時程、実を言うたら素晴らしい体験が生まれる、いよいよ実験させて頂くチャンス、いよいよ実証を受けさせて頂くチャンスだと、いうなら分かってくるとそれこそ、心配も又楽しいという事になるわけでしょう。苦労も又楽しいという事になる。信心はね、そこまでは一つ、身につけなければ信心の値打ちはないです。信心の稽古をするというなら、おかげを頂く稽古ならそげなこつは要らんです。
けども信心を頂くという稽古になる、あの世まで持って行けるようなもの、後にも残る程しのものという事になればね、やはりその信心辛抱の徳を受けなければいけません。昨日、早速あのう壮年会の時の講師であった、牟田先生からお礼の手紙がまいりました。もうそれこそ、もうそれこそ感動いっぱい、喜びいっぱいと言う様なものが感じられる短いお手紙ですけれども、それに一番始めにこういう詩が書いてある。
「有難し祈りと光に照らされて、我が身明るく光り輝く」私が夢の中に頂いておったように、いわゆる先生にスポットをあてた。丁度みえましてから、すぐ応接間御挨拶にまいりまして、その話をした事でした。今度の壮年会でその講師がいろいろとうんぬんされている時でしたが、お夢ん中に、高見山という相撲取りがおりましょうね。あの相撲がかぎの手になった梯子をこう登っていくところを頂いたんです。それで登ってこう曲がったところに上からスポットが、パア-と当たった所を頂いたんです。
それで私は、その高見山という事は力があるひとということでしょう。または高見山であることは外国人ですから、合楽に関係のない他の人だと思うんです。だから合楽関係ではない先生達で、そのお願いが出けたら、来てもらったら誰がよかろうかというところに、牟田先生はどうかという事になったのです。それも私は、会うた事も見た事もなかったけれども、秋永先生が久留米でいっぺん、先生の話を聞いて、なかなか合楽的な話をなさるというのが、私の耳に残っとったんです。
それから、いろいろ書き物をなさっておりますから、本やらも出しておられますから、そういう意味では知っておりましたけれども、本当の牟田先生は知りませんでした。いわゆる外子の関係、ははぁ高見山というのは。しかも教団の中でも九州地域ですけど、非常にいわゆるまぁ力を持った先生なんですね。はぁ高見山、だからそういう私は先生を頂いて先生にお願いすることになったんですよと。
先生はおつむ(頭)が禿げておられますのに、私がその事をお願いしよりましたら、禿げておる頭に、こう真っ黒い髪の毛が生えるところを頂きました、というてこりゃまだお話がはじまる前に、応接間で、こういう事がすらすら言えるよな雰囲気があったんです。その日は、だから先生もはじめからこう、うち解けられたという感じでした。もうまさに、いうなら髪の毛がという事は信心で神という事でしょう。新たな信心が生える、新たな信心を感じられるという事じゃなかったでしょうかね。
そして今、こういう詩にもなったわけですけれどもね。この皆さん聞いておられてから感じられたかどうか、「合楽」とという字が歌いこんであります。有難くで(あ)があるでしょう、祈りといところで(い)の字があるでしょう。光に照らされてで照らで(ら)があるでしょう。我が身明るくで(く)があるでしょう それに○をつけちゃる。歌を書いてから「あいらく」如何にその先にゃ、もうとてもだけん素晴らしい有難い、有難かったというてこれから、そして合楽にこうして御縁を頂いたその事を。
これからいよいよ温めて本当なものにしていきたいというふうに書いておられます。例えばいうなら教団、そして合楽教会といったような関係におきましてもです、もうとにかくやはり普通でいうなら、言い訳したいような時もあったけれども、いうなら辛抱し続けて神様が御照覧。神様が知っておいでなのだから、もうわざわざ言い訳せんでも、どうせんでもというのが私の生き方なんですから、辛抱させて頂いておるうちにです、こういう向こうから開けてくるような働きがうまれてくるという事なんです。
これは大きな意味合いに於いてもそうですね、だから信心辛抱が一番大切でございますと教祖様がおっしゃる、その信心辛抱がですね、どういう時に行使されなければならないか、それこそ雨が降るから、風が吹くからという時程身に徳を受ける。いうならもう絶好のチャンスだと思うて、それを受けていく事が、楽しゅうなるような信心を身につけたいですね。
どうぞ。